妙円寺詣りとは
 関ヶ原の戦いで、東軍約100,000人の中に孤立した島津義弘公率いる島津軍約1,000人は、退却する時、前方約500mの徳川家康の本陣前を突破し鳥頭坂を通り、最終的に80名まで兵を減らして、大阪の堺までの300kmの道程を3日3晩歩き、自国である薩摩(鹿児島県)まで帰ったという。 戦国の合戦史上異例な“関ヶ原退き口”あるいは“島津の前退”と呼ばれているこの苦難を偲んで、島津義弘公の菩提寺の妙円寺までの往復約42kmを歩くという行事が、江戸時代より行われ続けています。
 また“妙円寺詣りの歌”は関ヶ原の戦い及び島津軍の壮絶な退却戦の模様を歌ったもので、これを歌いながら歩きます。
 
以下は“妙円寺詣りの歌”の解説です。

一、 夜が明けたけれども、空一杯の雲でまだうす暗いでした。
強い風がサーと吹いて、すすきやかるかやの穂がゆれています。
侍たちが乗っているたくさんの馬も
気分を高ぶらせ、ヒヒーンヒヒーンと声高く鳴いています。
 
二、 鉄砲の音は雷のようにひびき渡り、刀は稲光のようにピカピカと光ります。
東軍の徳川が取るか?西軍の豊臣が取るのか?
日本国中を二つに分けた大きな戦いが、
慶長5年(西暦1600年)9月15日朝8時、岐阜県の関ヶ原で始まったばかりです。
 
三、 一向に動き出さない島津軍に、
北へ600m位高さ40m位の笹尾山に居た総大将の石田三成(41才)が、
動き始めろと三回も使いを出しますが、
島津軍は動かずに小池(地名)に鉄のように堅く陣を構えたままです。
 
四、 強いことで有名な敵の井伊直政(41才)や本多忠勝(53才)が
霧の中に隠れて攻めて来たので、
こちらの山田昌巌(23才)や加治木・福山町の兵隊が待っていて、
メチャメチャにやっつけたので敵は散って逃げました。
 
五、 東軍は、徳川家康の力や人気を頼りにして集まり、
西軍は、豊臣秀吉からの恩返しに立ち上がったのです。
東軍約104,000人、西軍約96,000人、合計で200,000人余り
サーどっちが勝ち、どちらが負ける結果になるのか!
 
六、 戦が真最中の昼ごろ、東南の松尾山(293m)中腹に陣取っていた
秀吉の養子の小早川秀秋(19才)軍15,000人が、
汚いことに、北に800mの同じ西軍の大谷吉継(42才)軍500人の陣に
攻め下って、裏切ったことはほんとうに残念なことです。
 
七、 前も敵、後からは裏切り者、耐えきれなくなった西軍の大部分は
散り散りに、西北伊吹山(1,377m)などに逃げましたが、
特に強い島津の1,000人だけが残って
怒った虎が、岩の上から飛び掛りそうな勢いで構えています。
 
八、 野原を駆け回る馬に踏まれて、草は全部踏み倒されています。
島津軍が頑張っているので、残っている他の西軍の人達も、
我先に元気よく攻めていったので、
敵は旗を肩に担いで、ヒラヒラさせながら逃げて行きました。
 
九、 島津の東南、2,600mの桃配山の家康は、
非常に怒って爪をかみながら、俺が勝負を決めてやると、
東方600mの陣場野まで前進して、関東から来た勢力全部で、
雲や霞のように野山を埋め尽くして攻め込んで来ました。
 
十、 突っ込め!進め!と66歳の義弘(別名 惟新)公の、
耳の鼓膜も破れるような激しい叫び声に、
燃え上がった薩摩や大隅の元気者たちが振り下す刀の先は、
水を切きっても水が、くっつかないくらい速くて烈しいものでした。
 
一一、 島津軍は敵に追い払われてはまた、突っ込んで行き
突っ込んでは切りまくって、荒くて恐ろしい鬼もやっつけるくらい強いのだが、
30,000人に対してこちらはたったの1,000人、
人数が少な過ぎてどうしようもありません。
 
一二、 午後2時、生きるか死ぬか、勝つか負けるか、今が運の分かれ目だ。
馬を鞭で打って残った100人余りで、
家康の本陣30,000人の真ん中に、チェスト行け!と勢い激しく殴り込み
突き破って、敵の後ろの方へ生き延びました。
 
一三、 親子代々お世話になった侍や兵隊達は、
薩摩・大隅の国が残るか滅ぼされるかは、今がその分かれ目だとの覚悟で
刀と刀が激しくぶつかり合う音や掛け声は、
天にも届き、地震のように大地も揺れる程の凄まじさでした。
 
一四、 竹をたばねたように大粒な土砂降りの雨の中に
戦死者が横になって倒れていたり、傷口から吹き出す血のために
吹いて来る風までも生臭いようです。
地獄の一丁目も、こんなにあるのかなと思わせるような怖さでした。
 
一五、 中央突破の後、東南に約2km、烏頭坂では
豊久(31)は捨屈(すてがまり)で一番後を守っていたが
倒しても殺しても次々に敵が追いついて来ます。
激しく飛んでくる鉄砲の玉の音は物凄いもので、いよいよ危なくなって来ました。
 

注1
一六、 槍で七度も突き上げられて、死体も真っ赤に染まり、
義弘公の身代わりとなった豊久を見た敵の兵隊は、
益々、勇気を出して一固まりになって急いで追って来ます。
豊久の墓は、岐阜県上石津町と吹上町永吉にあります。
 
一七、 東南へ1,500m、牧田で
鹿児島県蒲生町の地頭(町長) 阿多長寿院盛淳は、義弘公から貰った旗を振りながら、
兵庫入道(義弘)の最後の姿を見よと、嘘の名前を叫んで突っ込んで
勇ましく死にました。53才とは実践のぎりぎりの歳です。
 

注2
一八、 騙された残念さで休みもせずに、
家康の四男松平忠吉(21) や井伊直政(41)が、馬を並べ追って来ましたが、
こちらもまだ残っている力で、猛烈に打ち返したので、
二人とも傷を受けて引き返しました。午後4時、戦い終わり。
 
一九、 牧田川に沿った一本道を、途中の敵を蹴ちらして南に23km、
10時頃、養老山の高さ500m、駒野峠の夜道に隠れて
三重県伊勢の国に向かって落ち延びました。
義弘公が捨てた鎧を、横山休内は大阪まで着て行きました。
 
二〇、 大垣での会議で疲れている東軍に、
夜中に攻め込めとの意見を取り上げられないで、
66年間の一生の中で初めて負けて、
思わぬ恥を掻かされた義弘公の残念さは、どんなにあったことでしょうな。
 
二一、 栄えたり滅んだりする世の中のすべての姿は、
夢のように儚いものだけれども、敵に背中を見せて逃げるような
卑怯な事をしないで、中央突破した薩摩武士の比べもののない勇ましさは、
いつまでも末永く光輝いています
 
二二、 土の中には死傷者の血が流されたのでしょうに、
何も知らない鬘(かずら)は今でも茂っています。
15日午前0時からの祭りの後帰る時、天には満月が霞んで見えます。
世の中が変わる程、益々昔が懐かしく思い出されますね。

注1: 捨屈(すてがまり) とは
「捨て構居」「捨て奸」とも書き、退却時、選ばれた狙撃兵士が字のごとく最後尾に一人ずつ胡座をかき、敵の進路を防ぎ、敵に銃撃を浴びせ、さらに迫ってくる敵には抜刀して死ぬまで戦うことが義務づけられるという壮絶な捨て身の生還は望めない戦法。
「井伊直政」を狙撃した、ある薩摩武士は奇跡的にも生き残り薩摩へ帰還しています・・・・・「井伊直政」も、自分を狙撃したツワモノを褒め称えております。後に「井伊直政」はその時の「傷」が元で1年半後、42才で他界しました。
 
注2: 私の出生地の町です。我が家に残る幕末動乱時の 『古い写真』