名 称
所在地
祭 神
訪問日
備 考
:御霊神社、通称(鎌倉)権五郎神社
:神奈川県鎌倉市坂ノ下4-9  江ノ島電鉄長谷駅より徒歩約5分
:鎌倉権五郎景政公一柱
:2009年1月12日ほか
:いたる所に酒匂家と同じ“並び矢”の紋を見ることができる

御霊神社の本殿 入口の鳥居の前は江ノ電の踏み切り

本殿屋根に並び矢の紋 神社の名称

賽銭箱にも並び矢の紋 神社の由緒書



御霊神社(鎌倉権五郎神社)の由緒
 当社の創立は平安時代後期。鎌倉・湘南地帯を開拓した領主、鎌倉権五郎景政公をお祀りしています。祭神景政公は桓武天皇(50代)の末裔、平氏の一門で、時代的には源頼朝公開府より90年余年前の鎌倉権之守でありました。当時関東には、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の所謂関東平氏五家が割拠しており、その五家の先祖を祀る五霊神社が先ず建てられ、その五霊が同音である御霊に変り、当社の場合祭神も五家の祖霊から武勇の誉高い領主景政公一柱にいつしか変り、権五郎神社と俗称せられるようになったと思われます。
 景政公のことは、「奥州後三年記」(南北朝時代に書かれた絵巻物)に見られますが、そのあらましは次の通りです。
 景政公16歳にして源義家に従い、奥州後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳥海三郎と言う者に右の眼に矢を射込まれました。然し彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って相手を倒してしまいました。そして味方の陣に帰り兜をぬいで「景政手負いたり」と大声してたおれました。そこで味方の此も亦剛の者、三浦の平太為次という武士が景政の目にささった矢を抜こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をかけました。すると景政は「弓矢に当って死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。為次は驚いて其の無礼を謝し膝を以て押えその矢を抜いた。人々此を見聞し景政の功名いよいよ高しと。
 こうしたことから景政の勇名は鎌倉武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになりました。後景政の子孫大庭平太景能、同三郎景親も此の事蹟を誇りとして、保元の乱の折「答の矢にて敵を射て名を後代に挙げ、今は神と言われたる鎌倉権五郎景政が末葉にて云々」と軍陣に名乗りを挙げております。鎌倉時代になってからも崇敬の度は益々高く「吾妻鏡」の中に其の記事が散見されます。
 文治元年(平家滅亡の年)8月27日御霊社の社殿が鳴動して地震の如くすさまじく、幕府から使者が参向し御願書を奉納して巫女等に賜物を下し神楽を奏したと書いてあります。又その他にも御霊社の記事が多々あるを見ても御霊社はさまざまな奇端の現われる神社として幕府の崇敬の度が厚く、諸行事がこのお宮を中心に行われたことがうかがわれます。明治以後鎌倉市が観光都市として隆盛におもむくと共に世人の崇敬もさらに深まり、祭神の武勇・廉恥の精神を慕い除災招福を祈る参拝者も年々数を増しています。
 現在の社会にあっても景政公の旺盛な精神力は初志の貫徹を祈る人達への厳しい励ましとなることでしょう。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)作成の由緒書より

※本サイト管理人の補足
 御霊神社は全国に点在するが、上記の神社とは無縁のものもある。
 それは御霊を非業の死を遂げた人の霊のことと捉えたもの。奈良時代末から平安時代にしばしば疫病が流行、それを御霊の祟りであるとしてその怨霊を鎮めるために祀った御霊神社である。とくに有名なのは、京都の上御霊神社、下御霊神社の両社である。


牛久市(茨城県)に残る鎌倉権五郎景政公の伝承
牛久市にある鎌倉権五郎景政公の墓
まもなく写真等を含め詳細を掲載予定です。


相模地方(神奈川県)を中心に御霊神社関係を地図上に表示しました。 ⇒ 


 
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