記憶に残る野球 | ![]() ![]() |
最終更新日 2014年4月2日 |
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私は祖父を知らない。祖父は私の母(祖父の長女)がまだ独身(19歳)の時に他界している。しかし、父に愛されていた母は時折、祖父の思い出を語ってくれていた。その祖父の思い出の写真がたくさん残されていることを最近になって知った。 | ||
若くして未亡人となった祖母が大切に保管していたものである。多くの関係者が他界した後に、それらの写真を初めて目にする私であった。その中には多くの野球をしているシーンが残されていた。まだプロ野球も無い時代である。野球好きの私にとって、その中の一枚が情報収集のきっかけとなった。 | ||
大きな球場で試合している写真、スコアボードにメンバー表が写されている。それと、母が語っていた一つの逸話を元に、昭和5年の第4回都市対抗野球大会が開催された神宮球場でのシーンであることが判明した。母が語っていた逸話とは・・・ | ||
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小学3年生の母には小学1年生の妹がいた。夏休み、父が野球で東京へ行ってる時、妹が熱中症で倒れ・・・東京で野球を終えた父は、当時三十時間以上の行程を要した東京〜鹿児島間、鹿児島鉄道局チームを引率し、一応その管理職にあった祖父は、独断でダイヤを無視して列車をかなりスピードアップして運行させ、息絶え絶えの娘の元へ帰り着くが間もなく娘は・・・と言う話である。 | ||
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その後、国策により華中鉄道株式会社設立準備のため中国(上海)へ渡った祖父は、異国いや占領した上海でもチームを作り野球に興じていたらしい。それらを証明する写真を整理するも、今となっては僅かなメモ等から推測する以外に真実を知る術はない。 私の家にも同じ様な写真がある・・・とか、何かしら情報をお持ちの方がありましたら教えて頂きたいと思います。 管理人 拝 |
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以下は大正から昭和初期の古い写真です。コメントは管理人の推測によるものです。 存命の関係者が非常に少ないため、資料特に写真の解析等に苦労しています。 何か類似の情報等がありましたらご提供ください。 |
大正時代の末頃?鹿児島市の祇園洲で野球をしていたと聞いているが・・・ 始球式であろうか? |
大正時代の末頃?鹿児島市の祇園洲で野球をしていたと聞いているが・・・ 前列中央に座っている祖父 後方には薄く桜島の姿 |
大正時代の末頃?鹿児島市の祇園洲で野球をしていたと聞いているが・・・ 2種類のユニフォームは相手チームか?向かって右端に座る祖父 |
大正10年頃とすれば27〜28歳の祖父の姿 | ||
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立派なスタンドはどこだろう 後方中央に髭姿に野球帽の祖父 |
鹿鉄のメンバー 優勝カップ?を前に祖父 |
リラックスした同僚ら | 鹿鉄のメンバー 前列中央に祖父 |
この頃は現役引退か 向かって右端に黒の制服姿 |
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第4回都市対抗野球大会 開会式 神宮球場 1930/8/5(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 鹿児島鉄道局メンバー 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 ベンチ前に立つ祖父 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
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第4回都市対抗野球大会 1回戦 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 1回戦 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 1回戦 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 1回戦 神宮球場 1930/8/6(昭和5年) |
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都市対抗野球大会60年史 日本野球連盟 発行 上記より抜粋 |
第4回都市対抗野球大会 神宮球場 1930/8/5〜10(昭和5年) |
第4回都市対抗野球大会 神宮球場 大会史上最長の延長17回 1930/8/6(昭和5年) |
都市対抗野球大会60年史 日本野球連盟 発行 上記より抜粋 |
第4回都市対抗野球大会 神宮球場 1930/8/5〜10(昭和5年) |
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第五回派遣團到着 呉淞桟橋にて |
北停車場裏にて | 梅丸の船上 | 梅丸の船上 | 梅丸の船上 | 淮河の鉄橋 |
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井上部隊 | 本部付近にて 昭和13.1.1 |
廟行鎮の忠霊塔 | 上海でもチームを作り・・・ 部隊の優勝 新公園野球場に於て |
井上部隊野球場 | 井上部隊野球場 |
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53 | 南京 中山陵 | 南京 中山陵の記念館 | 47 | 中山陵 | |
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絆*山より淮河を望む | 淮河 | 54 | 55 | 56 | |
静次 上海へ渡る前 最後の家族写真 昭和12.1.2 |
家族写真 残された家族 昭和13.1.16 |
霧島神宮にて家族写真 上海へ送る 伊東家の皆さんと 昭和14.1.2 |
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上海飛行場待合室 昭和14.6.5 |
病に倒れ 軍用機にて帰国へ 上海飛行場 昭和14.6.5 |
機中にて記す 昭和14.6.5 |
機中にて記す 昭和14.6.5 |
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静次の子孫(孫10人、曾孫15人) |
西暦(元号) | 年齢 | 主なできごと(静次及び家族、野球、鉄道等) |
1871年(明治04年) | ・横浜の外国人居留民とアメリカ軍艦「コロラド号」の乗員との間で野球の試合が行われる。 球場は現在の横浜スタジアム。これが日本で行われた初めての野球。 |
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1872年(明治05年) | ・第一番中学(現在の東京大学)の外国人教師ホーレス・ウィルソンによって、学生たちの間に野球が広まる。 | |
1894年(明治27年) | 0歳 | ・静次(祖父) 3月15日 鶴留家の長男として鹿児島県帖佐村(現姶良市)にて誕生 |
1907年(明治40年) | 13歳 | ・帝国鉄道庁 設立 |
1908年(明治41年) | 14歳 | ・鉄道院設置 鉄道国有化により設置された鉄道行政の中央官庁。1908年(明治41)帝国鉄道庁・逓信省鉄道局を統合して発足 |
1908年(明治41年) | 14歳 | ・アメリカのプロ野球チーム(マイナーリーグ主体)来日。 |
1915年(大正04年) | 21歳 | ・静次(祖父) 鉄道院時代の門司鉄道管理局の鹿児島運輸事務所に奉職 |
1920年(大正09年) | 26歳 | ・鉄道省発足(東京鉄道局、名古屋鉄道局、神戸鉄道管理局、門司鉄道管理局、仙台鉄道管理局、札幌鉄道管理局) |
1920年(大正09年) | 26歳 | ・静次(祖父) 寺迫ハルと結婚 |
1920年(大正09年) | 26歳 | ・長女 シヅ(私の母) 誕生 戦争中に記した家計簿「戦時下の若き主婦の家計簿・日誌」 |
1923年(大正12年) | 29歳 | ・二女 敏子 誕生 |
1925年(大正14年) | 31歳 | ・三女 光子 誕生 |
1927年(昭和 2年) | 33歳 | ・第1回都市対抗野球大会が、神宮球場にて12チーム出場で開催。 |
1928年(昭和03年) | 34歳 | ・長男 一男 誕生 |
1930年(昭和05年) | 36歳 | ・静次(祖父) 鹿児島鉄道局を率いて第4回都市対抗野球大会に出場、大会史上最長の延長17回激闘の末、1回戦敗退(8月6日) |
1930年(昭和05年) | 36歳 | ・都市対抗野球大会中に二女敏子は「熱中症」を発症して8月10日に7歳にて死亡。 |
1930年(昭和05年) | 36歳 | ・二男 利夫 誕生 |
1934年(昭和09年) | 40歳 | ・「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍、現在の読売ジャイアンツ)が設立。 |
1934年(昭和09年) | 40歳 | ・三男 隆 誕生 三ヶ月後 死亡 |
1935年(昭和10年) | 41歳 | ・「大阪野球倶楽部」(大阪タイガース、現在の阪神タイガース)が設立。 |
1936年(昭和11年) | 42歳 | ・「大日本野球連盟名古屋協会」(名古屋軍、現在の中日ドラゴンズ)、「東京野球協会」(東京セネタース)、「名古屋野球倶楽部」(名古屋金鯱軍) 「大阪阪急野球協会」(阪急軍、現在のオリックス・バファローズ)、「大日本野球連盟東京協会」(大東京軍)が発足。 ・これらの球団と巨人、大阪により、日本初のプロ野球リーグとして「日本職業野球連盟」設立。 ・現在のようなペナントレース(公式戦)が始まり、日本における全国規模の社会人スポーツリーグ第1号となった。 ・連盟が設立された2月5日はのちに「プロ野球の日」と定められる。 |
1937年(昭和12年) | 43歳 | ・静次(祖父) 日本が南京を占領後、国策にて華中鉄道株式会社設立準備のため中国(上海)へ渡る。 |
1939年(昭和14年) | 45歳 | ・日本職業野球連盟が日本野球連盟に改称。 |
1939年(昭和14年) | 45歳 | ・日本・中華民国維新政府及び南京国民政府の合弁特殊法人である華中鉄道株式会社設立。本社は中華民国上海市 日中戦争によって日本軍が占領した中国の鉄道の内、華中地域の運営を行。 |
1939年(昭和14年) | 45歳 | ・6月5日、胃がん治療のため、軍用機にて帰国も10月19日、45歳にて静次(祖父)死亡 |
資料を調査中 |
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