ファンタジー文学と風土 |
ファンタジー文学には国籍がない。人種も年齢も性別も職業もすべてを超えて、誰でも楽しむことができる。条件はただ一つ。想像力への憧れだけだ。人が思い浮かべることのできることや表現できることを現実と同じぐらい大切に思うことができる人だけが、ファンタジーの世界への切符を手に入れることができる。 だからファンタジー文学はありとあらゆる世界を表現しているはずなのだが、実際はそうではない。これがファンタジー世界というかなりはっきりしたイメージがあるように思う。どちらかというとキリスト教以前のヨーロッパ、本来はケルトあたりがふるさとなのだろうか? 私はきちんと学問していないので定かではないのだが、でも、イギリスやドイツ、あるいはせいぜい北欧らしき風景や生活や価値観、つまり風土がほとんどのような気がする。この頃よく使われる「サーガ」も北欧の伝承文学のはず。 同じヨーロッパでも、スペインやポルトガル風のファンタジー世界ってあるだろうか?登場人物がパエリアを食べているところを読んだことはないし。南の島とかジャングルとか暑い国も、私の持っているファンタジー文学のイメージと合わない。やっぱり、寒くて森があって、シチューやベーコンを食べるイメージだ。アジアとなるとなおさら違う。日本が舞台のファンタジーなんてとても考えられない。 それでは、「空色勾玉」はどうなんだと言われると、考え込んでしまう。確かにファンタジー文学だけれど、私の中のファンタジー文学とは違和感がある。「ヤマトタケル」や「竹取物語」は神話に入れたい。「西遊記」や「水滸伝」それに最近漫画やアニメになって知られるようになった「封神演義」だって、中国産のすばらしくスケールの大きなファンタジー文学だけれど、でも伝奇小説とかシノワロマンとか呼ぶほうが、私はスッキリする。 こんな私にとって、最もファンタジーから遠い場所だったオーストラリア産のファンタジー文学が現れた。先月書評のページで紹介した「ローワンと魔法の地図」だ。 小人も騎士もいない。竜はでてくるが、圧倒的な存在ではなく何となく動物の一種という感じ。舞台も架空の村と山だが、オーストラリアを思わせる雄大な世界。ドワーフの作った見事な細工物もなく、美しいエルフも威厳ある王もいない。何よりも長い長い人の営みの痕跡がない。 それでも、この作品はりっぱにファンタジー文学だった。使命を果たすためのつらい旅、そして、迷い、挫折、別れがきちんと描かれていたから。物語の底流として勇気とその源になる愛が流れていたから。 いつか、日本の風土を背景にしたファンタジー文学を書いてみたいと思った。 |
トップページ | 書評 | 人気投票 | 雑学辞典 | コラムトップ | 挿絵募集のお知らせ | diary | 掲示板へ | リンク |