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失敗を糧に | 公開未定 | 作 管理人 | 人生の挫折の記録・・・・・・失敗を糧に、日々あらたな発見を求めて |
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1945年 | (昭和20年) | 出生を控え、激化する米軍の空襲から逃れるために、居住する鹿児島市から | |
鹿児島県蒲生町の母方の祖母の実家へ疎開して、広島に原爆が投下された日、長男として無事に生まれる。 | |||
鹿児島市の住居の庭に大きな防空壕があり、近所の人達が利用していたらしいが、爆弾の直撃を受けて | |||
全滅だったらしい。つまり私の出生が、家族全員の命を救ったのであった。 | |||
その後、幾度かの転居を繰り返すがかって住んでいた家屋はどこにも現存しない。 | |||
唯一、蒲生町の生家のみ現在でも立派にそのままの姿で残っている。明治30年頃の築らしい。 | |||
1947年 | (昭和22年) | 12月に3才上の姉が病死し、その一ヵ月後に弟が生まれる。 | |
1949年 | (昭和24年) | 10月、今となってはその複雑な事情を知るものは存命しないが、最初の転居となる。 | |
その場所は、同じ蒲生町にあった父方の祖母の実家(○○医院)の離れ?であった。 | |||
1951年 | (昭和26年) | 3月、雪がちらつく日に二人目の弟が生まれる。 | |
4月、父の転勤のために鹿児島県加治木町錦江へ転居する。 | |||
小学校入学前の幼児が | |||
川に繋がれた小舟に乗り海まで流されたり、線路に置石したり・・・困った事件を引き起こす。 | |||
ルース台風で床上浸水の被害に遭ったことが、鮮明に記憶に残る。 | |||
1952年 | (昭和27年) | 鹿児島県加治木町錦江小学校入学するも一週間にて転居する。 | |
転居先は、父の転勤に伴うもので、同じ加治木町小山田の中郷という場所であった。 | |||
学校は、龍門小学校で昭和20年生まれの児童は極端に少なく1クラスであった。 | |||
1954年 | (昭和29年) | 加治木町の教職員住宅が小山田の御狩山に建設されたので、入居のために転居する。 | |
母が子宮外妊娠のために体調をくずし、長期入院して生死の境を彷徨う。 | |||
1956年 | (昭和31年) | 4月、父の転勤のために鹿児島県栗野町へ転居し、栗野小学校に転入する。 | |
住環境が好ましくなく、○○医院の屋敷内の別棟へ転居する。 | |||
1957年 | (昭和32年) | 新築の賃貸住居が近くに出来たために転居する。 | |
1958年〜 | (昭和33年) | 栗野小学校を卒業して、親元を離れ | |
鹿児島県鹿児島市清水中学校入学するも、椎間板ヘルニア等のため、休学、そして転居を繰返す。 | |||
1963年 | (昭和38年) | 5年間かけてやっと中学を卒業して | |
鹿児島県鹿児島市玉龍高等学校入学するも、校風に反発して即座に退学する。 | |||
1964年〜 | (昭和39年) | 国立鹿児島工業高等専門学校 電気工学科にトップで入学も・・・・・・かろうじて卒業する。 | |
1970年〜 | (昭和45年) | スタンレー電気株式会社入社(技術研究所勤務) | |
排気ガス測定器開発、ハロゲン電球開発、液晶の基礎研究等に従事する。 | |||
1972年〜 | (昭和47年) | 結婚して、川崎市中原区新丸子に居住、その後、閑静な横浜市緑区長津田へ転居する。 | |
1974年〜 | (昭和49年) | 横浜市緑区美しが丘(美しが丘保育園管理人)へ転居する。 | |
1976年 | (昭和51年) | 上司との折合い悪く、スタンレー電気株式会社を退社。関西エイト株式会社(現エイトレント株式会社)へ転職する。 | |
長男誕生する。 | |||
東京支店のただ一人の技術職として、電気及び事務機器の保守を担当するも | |||
関東一円の面倒をみるハードな毎日に耐え切れず、社長の懇願を振り切り半年で退社する。 | |||
1977年〜 | (昭和52年) | 葛g田電子技研入社、電子機器の設計(市町村防災行政無線システム等)に従事する。 | |
横浜市緑区もみの木台(もみの木台保育園管理人)へ転居する。 | |||
1979年 | (昭和54年) | 横浜市緑区すすき野(現住所)へ、リヤカーを使い一週間を費やし200mの距離を転居する。 | |
1980年 | (昭和55年) | 長女誕生する。 | |
1983年〜 | (昭和58年) | 学童保育「市ヶ尾ちびっこの家」の役員として運営に参加する。 | |
全国学童保育研究集会(神戸)に参加。 | |||
1984年〜 | (昭和59年) | 独立開業、パソコンを駆使して電子機器の設計業務を始める。 | |
1985年〜 | (昭和60年) | 次男誕生する。 | |
緑青色申告会のあざみ野支部・元石川支部創設に参加、後に元石川支部長、青葉Cブロック長 | |||
本部会計職を歴任し、青色申告の普及に努める。 | |||
1987年 | (昭和62年) | 「すすき野あざみ野学童保育所」の開設により、父母会会長として運営に携わるも・・・。 | |
1991年〜 | (平成03年) | 父、肺がんのため逝去する。 | |
横浜市青少年指導員(すすき野地区副会長)として、地域の青少年の育成に当たる。 | |||
1993年〜 | (平成05年) | 嶮山小学校で初めての男性によるPTA会長に就任する。 | |
駒澤大学高等学校サッカー部父母会会長を受諾する。 | |||
1994年〜 | (平成06年) | 横浜市青葉区誕生、青葉区PTA連絡協議会の設立総会にて副会長に就任するも、会長辞任に伴い | |
青葉区初代の会長として数々の辛酸を舐める。 | |||
横浜市PTA連絡協議会理事として、日本PTA全国研究大会(島根)に参加して見識を広める。 | |||
1996年 | (平成08年) | 母、末期がんのため、ワゴン車でパソコン一式を積み込み鹿児島まで移動する。 | |
看病の傍ら、パソコンを駆使して設計業務をこなすも、2ヶ月後 逝去する。 | |||
1998年 | (平成10年) | 駒澤大学高等学校 旃檀会の副会長として、創立50周年行事、甲子園初出場の支援業務に奔走。 | |
1999年〜 | (平成11年) | 駒澤大学高等学校 一如会の事務局長として、会の組織整備に着手する。 | |
2002年 | (平成14年) | 膀胱癌のため、半年ほど入院、膀胱の全摘手術後ストーマを創設、オストメイトとなる。 | |
身体障害者4級に認定さる。 | |||
2003年〜 | (平成15年) | 柴犬「ロッコ」を飼い始める。 | |
2005年 | (平成17年) | 人生50年でよし・・・が、還暦を迎える。 | |
2005年 | (平成17年) | 全ての役職、公務?から離れ、愛犬を連れて全国行脚を始める。 | |
2015年 | (平成27年) | 全国を気ままに走り回っている間に、古希を迎える。 | |
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