ローズマリ・サトクリフ作 山本史郎訳 原書房 2001年 「アーサー王と円卓の騎士 サトクリフ・オリジナル」は、「アーサー王と聖杯の物語」「アーサー王最後の戦い」の3部作の第1作である。作者のローズマリ・サトクリフが、数多くのアーサー王物語を下敷きに、オリジナルの物語を加えたものである。 アーサーが騎士エクトルに預けられて成長し、石に刺さった剣を抜いて王座につくくだりを読んで、主人公の成長物語を期待すると、違和感を覚えることになるだろう。 アーサー王は、ローマ帝国の撤退した後のブリテンで、異民族の侵入を食い止めた偉大な王として描かれてはいる。しかし、この物語には異民族との国を挙げての戦いも、国を富ませるためにどんな政治をしたかも、庶民の生活も描かれてはいない。ただ、各章ごとに登場する円卓の騎士たちの武勇と恋が語られるだけだ。 アーサーと同じ年の甥であり王の擁護者として振舞うガウェイン、サトクリフがストーリーを創作したその弟である台所の騎士ボーマン、荒野で母親以外の人間を知らずに育ったパーシファル、そして、円卓随一の騎士ランスロット。 彼らは、いきなり城に飛び込んできて助けを求める乙女のために、冒険に乗り出し、相手の騎士と一騎打ちをする。あるいは武勇と高潔な心で王の信頼を得ながら、道ならぬ恋に苦悩する。騎士たちは登場しては、別の騎士に主役を譲る。 アーサーを王位につけた魔法使いマーリンでさえ、未来を予見する力を持ちながら、定められた役目を果たした後、静かに去っていく。 1章ごとに一つの物語が終わる。それぞれが、人物や背景を描きこめば1冊の本にできるほどの物語なのに、もっとドラマとして書き込んでほしいと物足りなさが募ってくる。一つ一つの物語の時系列がばらばらで、全体を貫くストーリーがない。3部作の第1作だから、壮大な物語の序章の部分なのかもしれない。 この本はアーサー王伝説の断片を繋ぎ合わせただけかと思い始めた頃、繰り返される一騎打ちのモチーフから単純で明白な理念が伝わってきた。 まず、乙女から救助を依頼されるなどのきっかけで、円卓の騎士団に使命が課される。名乗り出て、王に認められた一人の騎士が、たった一人で使命を果たしに赴く。ルールに従い一騎打ちが始まり、ルールに従い一騎打ちが終わる。一騎打ちが終われば、憎しみは残らない。勝った騎士に仕えるか、騎士の告げる王のもとに赴き、その王の騎士として共に仕えることになる。 そもそも乙女からの依頼が正当なものなのかどうか、このルールは問題にしない。力が劣り武芸が未熟なために敗れても、誇りを曲げずに命乞いしない騎士の命は奪われる。たくさんの心映えすぐれた騎士たちが、はかなく命を落としたことだろう。 それでも、誰も見ていないところでさえも、このルールを貫き通すことが円卓の騎士の誇りであった。そして、それを貫ける者の名だけが、魔法によって円卓の椅子の背に現れるのだ。 自分の誇りにかけてルールに従うという理念は、現代でも生き続けている。もっともわかりやすいのは、スポーツの選手が自分の判断ではなく、審判の判定に従うことだろう。サッカーの選手たちが試合終了のホイッスルがなった途端、いままで激しく戦っていた相手チームの選手と握手を交わす場面は、パーシファルとガウェインが肉親の仇を眠らせて、共に円卓の騎士としてアーサー王に仕えることを表明する場面の現代版のような気がする。 しかし、物語の後半になると、作者の関心は男と女のありように移ったように見える。トリスタンとイズ−の物語も、コクトーの映画で描かれた美しくも悲しい純恋とは違っている。むしろ、現代の社会で誰でもがしていそうな身勝手な不倫に見えてしまう。始めはストイックだったランスロットと王妃グゥイネビアの恋も、物語が進行するうちに次第に重苦しいものになっていく。 最後まで読んで、やっと、これは現代に生きるサトクリフという女性の視点から見たアーサー王と円卓の騎士の物語だったのだと気がついた。遠い昔の現実離れした物語の中の人物ではなく、今日ロンドンの街角で出会っても違和感のない、身勝手で頑固で、でも愛すべき男たちと、彼らを翻弄し、翻弄される女たちの物語なのだった。 |
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