J1 Last Run !
3. J1引退の花道 !
平成19年2月8日J1は大阪第二車両所で最後の交検を行った。当初は雪害対策列車の関係で最後の交検は。3月6日に行う予定でいたが、 結局、3月6日の新大阪駅ホーム上げまで一度も走らなかったので2月8日が最終交検となったのでした。
■ 希望の兆し・・・
J1の最終交検が行われた前日、2月7日に朗報が届いた。それは、J1の16号車322-9001が保存されるという内容であった。また、最終的に 廃車入場が3月28日の昼に決まったということでした。322-9001保存については、J1が300系初の廃車ということで、今後の300系量産車両 の廃車に伴う各解体作業工程のデータ取りをしなければならなかったため、ギリギリまで揉めていたとのことでした。怪我した直後の私に とってこの知らせは何よりも嬉しかった。そして、自分自身にラストランは絶対に撮ってみせると誓った。
平成19年3月6日17時30分雪害対策発信!小春日和の続いた2月から一転して、3月に入ると寒の戻りとなり、いよいよJ1の出番が
やってきた。そしてJ1が最後の雪害対策列車として走った3月13日、
私は、通院中の整形外科で4回目のレントゲンを
撮った。これを見て院長は、
「うん、骨の方も大分付いてきたので今日からリハビリを始めましょう。そろそろ徐々に動かさないと骨がどんどんやせてきちゃいます
からね。」
3月28日まであと15日、最低でもなんとかシャッターを押せるまでには回復させねばならない。リハビリを担当
する理学療法士は、
最初にこう言った。
「リハビリはやったもん勝ち!」
この言葉を聞いたとき、希望の光が見えた気がした。結局、この怪我などが重なってJ1雪列車は撮れず終い。残されたチャンスは、
3月28日のラストランのみとなった。ここに照準を合わせるべく日々リハビリに励んだ。
▲ 上り、のぞみ1番列車300Aに充てられ、春本番の相模川橋梁をゆくありし日のJ1 H 8.4.13 |
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最初に診療を受けた豊橋の医者の話によると・・・そもそも粉砕骨折というのは、骨折箇所が粉々に砕け散った症状を言うそうだ。
ちなみに骨折した部分が皮膚を突き破った状態を複雑骨折と呼ぶそうだ。手首関節の粉砕骨折は、
「昨年、松井秀喜がやったのと同じだ!」
と分かり易い例を挙げて説明してくれた。
3月20日、東京が全国で最初の桜の開花宣言を発表した。そして翌21日〜次々と各地で開花宣言が出された。J1のラストランに合わせるかの ように沿線の桜は開き始めた。桜の開花宣言が出されるとまもなくまた寒の戻りがあって暫くは満開にならなかった。この頃になると右手 の指の動きも大分良くなってきた。手首の方の捻りは1/3程度。この時点ではリハビリと入浴時以外はギブスをしていた。最終的にこの 状態で撮れるのか?実際にカメラをセッティングして空押ししてみたのは3月25日のことだった。“リハビリはやったもん勝ち!”では ないけれど、最後は“撮ったもん勝ち”とばかり、最終的に安全策より リスクの大きい“攻め!”を選んだ。
■ 別離のとき・・・
平成18年3月28日、とうとうこの日がやってきた。私は、前夜に浜松入りしてこの日を迎えた。J1のラストラン当日、1AはW1!偶然
とは思えないように西はA74にW1をのせてきた。私は、
「ほう、そうきたかぁ。西もなかなか憎いことをしてくれるなぁ・・・」
では、こちらも有難く撮らしていただきますヨとばかりに、怪我後の初ショットをこの1A
でウォーミングアップして、友人にあの場所
まで送ってもらった。
11時55分、83Aが下っていった。そして11時56分、陽炎の向こうから姿を現したJ1が15‰を駆け上がってきた・・・皮肉にも怪我した時と
略同時刻!もしかして最初からこのシナリオは出来ていたのかもね・・・?シャッターを切った瞬間が、J1とのお別れだった。これで
自身の厄払いも終わった。ともかくホッとし、その場で大きく深呼吸。なんとなく清々しい気分だった。
「最終回にはなんとか間に合ったかぁ・・・」
このとき私は、私を支援してくれた一人一人に対して感謝の気持ちで一杯でした。
J1引退の花道・・・陽光きらめき桜咲く沿線各地には、大勢のファンがカメラを手に待ち構えていた。J1はこの日、最後の行路をどんな 気持ちで走ったのだろうか・・・?そういえば初めてJ1を撮ったときも、勾配を駆け上がって来るシーンだった。そして最後も、勾配を 駆け上がって来るシーン。どちらも同じ3月下旬のことだった。
平成18年3月29日、J1が廃車入場した翌日、私の右手からギブスが外された。骨折から53日目のことだった。これからが事実上の リハビリ本番だ。
■ 廃車分割
平成18年4月2日、伊場遺跡の桜も満開。しかし空はどんよりとしていた。これを花曇と呼ぶのか・・・この日、私は夜勤の間合いを利用 して浜松工場を訪れた。目的はズバリ(J1)の廃車分割を撮影するためである。当初の計画どおりJ1は、平成18年度内廃車、平成19年 4月解体。
300系初の廃車ということで、この日9:30〜10:00廃車に伴うセレモニーが庫02#で行われた。実際に廃車に伴う編成分割が始まり、庫から 入替機に牽引され(J1)の1〜8号車が西伊場第1踏切に現れたのは14:00近くだった。引上3#で更に2分割し1〜4号車を先に転線 させ、入替機+5〜8号車+1〜4号車の状態で廃車場へと運ばれていった。
その後、9〜16号車が西伊場第1踏切に・・・そして05#へ転線し、16号車を切離して残りの9〜15号車は03#へ留置された。この状況 を見て322-9001は、間違いなく保存されるなと確信した。しかし・・・
翌週4月9日に再び浜工を訪れたときには、9〜16号車の状態で03#に留置されていた。この状態は少々気になった。解体場では、解体 作業が進行していた。後ろには8号車がいたので順番からして今目の前でクラッシャーによって潰されているのは1号車?このシーンだけ は何故かシャッターを押す気にはなれなかった。
(J1)の解体に合わせるように伊場遺跡の桜も散り始めていた。この桜の花びら一つ一つがJ1との思い出なのだろうか・・・今は、 J1との思い出にゆっくり浸っていたい気もするが、新幹線はそうはさせてくれない!私は今日もまた沿線に繰り出している・・・
平成19年4月初旬、Sネ氏との電話の中で ・・・
「ところでさぁ、アドレス変えないの?」
「変えませんよ、だってコムトラからJ01が消えても私のアドレスに残りますからねぇ・・・」
「そういうことねっ、平成18年度内廃車だからねぇ。うちはもうとっくにないよ!」
「そうですね・・・ともかくJ1がお役御免になってホッとしていますよ。」
「まぁ、色々あったからね!」
「はい、特に営業列車時代の夏季シーズンは大変でしたねぇ・・・」
こんな会話ができたのも全てJ1がいたおかげです。私のH.N.@J1も実はJR-C社のSトー君のメールがきっかけとなりました。それから、 J1の編成名削除についてですが、正式な編成名削除実施日は 平成19年3月30日です。コムトラック上には、編成名削除実施日当日、 編成名は残ります。J01が消えたのは平成19年3月30日終了時点。翌朝の指令出力開始後、車両滞泊モニタを選択し編成名入力にJ01と打ち 込むとガイトウヘンセイナシと出たとのこと・・・。
ということで、この場をお借りして撮影に当たっていつも協力して頂いている関係者の皆様、それから怪我した時この私をわざわざ自宅 まで送ってくれたHさん、J1 Last Run 当日私をあの場所まで送ってくれたKさん、どうもありがとうございました。またいつも “パールホワイトの閃光!”へお越しいただいている皆様には大変感謝しております。
J1 Last Run ! 引退の花道・・・ 〜おわり〜
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