J1撮影奮闘記2


'97 母の日 J1 浜松リベンジマッチ!


■ 外出禁止令!

1997年5月10日、夜・・・
「明日は何の日だと思ってんの・・・」
この晩、女房激怒!それもそのはず、この年のGWは新幹線と碓氷峠の撮影で殆ど家を空けていた。しかたなく翌日予定していた碓氷峠の 俯瞰撮影は中止!

翌5月11日、この日の朝方、私は女房に
「ちょっと日吉トンネルまで行ってくる。1時間したら帰ってくるから・・・」
そう言って外出禁止令にも拘らず何とかエスケープ!まぁ、近所だと問題はない? それでも前夜、自分の撮影計画がトケになったので 半分ふて腐れながら日吉トンネル横で7:20頃からカメラを構えていた。自分としては碓氷峠に行けなかったので新幹線でも撮って気を 落ち着かせたかったというのが本音。すると7:43にイカツイ面構えの300系がファインダーに飛込んできた!
「あっ、J1だっ!」
しかも1205A・・・ つまり、所定ダイヤならA6で ある。この瞬間あの日の出来事が脳裏を過ぎった。私は何を思ったか、すぐに撮影を止め家に戻った。

帰宅後、自分でもこのとき何を考えたか定かではないが、どうにかして浜松へ行かねばと思ったことには違いない。頭の中はJ1を見た 瞬間に、峠モードから幹線モードに切替っていた。ともかくじっとしてはいられなかった。

まず、子どもらを連れだし散歩に出かけた。この頃は日吉の駅前に住んでいた。このとき何故か中央通りの商店街を歩いていた。そして、 花屋の店先のカーネションに目がいった。
「う〜ん今日は母の日だよなぁ・・・そうだ、京都へいこう・・・いや、カーネションを買おう!」
で、ツインズに一本づつカーネションの花を持たせた。
「これ、お家に帰ったらママにあげるんだよ。」
子供らは何の疑いも持たずに帰宅後に間髪入れずにカーネションを女房に差し出した。さすがに女房もこのときは随分と感激していた。

奇襲作戦は、我ながら見事に成功した。これはあれこれ考えたのではなく咄嗟の思いつきだった。この後、すぐに外出許可が下りた。当然 だが子供らと一緒という条件ではあるが、ともかくこれでお膳立てはできた。


■ 大チョンボから3ヶ月後のリベンジ!

新横浜14:2715発の423Aで私は子供らを連れ浜松に向かった。幼児2人までは運賃が掛からないが アイスクリームやジュース代が掛かるのは何故だろうか?ヘタすれば弁当代も掛かってしまう時がある。この日は昼飯の後で出掛けたので 弁当代は免れた。私も幼年時代そうであったが、列車内で食べる弁当が格別なのは既にこの子達も知っていた! そしてビールを我慢して黙ってアイスクリームを頬張る子供達を見ていた

浜松16:13到着。降車して上り1#へ向かった。階段を上がると轟音と共に16Aがやってきた。その音にビビッたか長男は泣き出して しまった。そして
「ボクもうJ1なんか見なくていい・・・」
泣きじゃくる長男とは対象に、次男の方は至って冷静だった。やはり、J1の撮影は一筋縄ではいかないのか?このとき私は、どうにか して長男を平常心に戻さねば・・・そう思って必死に宥めた。ここまできてJ1を撮らずに帰るわけにはいかない。その思いが強かったの か、なんとか長男は泣き止み落ち着きを取り戻してくれた。

2月9日の大チョンボから3ヶ月が過ぎた。季節は初夏、当然夕ギラは狙えないが別な意味で決着をつけたかった。そして因縁の1246A が16:2815に定通!いよいよ248Aがやってくる。16:31逆光のR2200に閃光が走り、ファインダー内に あの厳つい顔が飛び込んできた。シャッターを切った瞬間、私の横をJ1は駆け抜けていった。時計は16:3145を 秒針が指したところだった。そのとき次男は、こう言った。
「J1速いねぇ〜」
長男は先程とは打って変わってニコニコ顔だった。私はホッとした。子守と撮影の同時進行は疲れる・・・まぁ、でもいい経験だった。 今思えばあの晩、外出禁止令が出なければJ1は撮れなかった。つまりなんの因果か、女房のひと言が結果としてJ1を撮らせてくれた ことになったのだ・・・

〜つづく〜
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